朝生賢孝先生の古希祝い
令和元年11月9日(土)
東京ベイプラザホテル木更津
朝生先生の古希を祝う会
木更津中央高校(現:木更津総合高校)剣道部 第22期生から第25期生で開催させて頂きました。
10年前に還暦を祝う会を開催させて頂き、2回目となります。
朝生先生にご指導を賜りました、教え子達は、背中に必ず、朝生イズムを背負っています。
カリスマ性のある朝生先生の様には、生きることはできないかもしれませんが、困難になればなるほど、朝生イズムが発揮されます。
また、熱き魂も受け継いでいます。
自分が、縁あって野間会の指導をさせて頂くこととなり、師匠である朝生先生から有難いお言葉を賜りました。
『子供達の監督に就いたら、お前も一緒に戦え、一緒の気持ちで攻めろ、相手の打突は、凌げ❗️
それから、稽古に行ったら、時間が無くても必ず面を付けろ、剣と剣が互いに交じりあってこそ、子供達の気持ちが見える』
その教えを守ります。
貴方にご指導を賜り感謝致します。🌸
富津市立富津中学校剣道部(後輩達の関東大会団体戦出場への夢をつなぐ)
昭和56年4月
富津中学校入学と共に剣道部に入部した。
しかしながら、剣道指導者の顧問はおらず、稽古は、ほとんど1年半の間、実施されずに剣道部は不良中学であったことにより、荒れていた。
そのため、夜の稽古をさせて貰うため、水曜日、土曜日に野間会に伺いましたが、野間会も指導者同士のトラブルが発生し、指導者が総入れ替えとなり、稽古に行けなくなってしまい、親には、稽古に行くと言いながら、剣道部の同級生と、夜の街を自転車で徘徊していました。
自分達が中学校に入学すると同時に、天羽中学校では、当時、富津市役所の吉本先生(現:吉本県議会議員)が社会体育の先駆者として、監督となり毎日、夜の部活動をされていた。
そのため、小学生時代からライバルであった、練心会の中山氏(中山工務店)、金谷剣士会の鈴木氏(金谷フィッシュ)、長嶋氏(千葉県警)、その後の後輩も含めて、県大会及び関東大会を目指されていた。
自分達は、基本打ちも知らず、地稽古だけで、先輩からの打ち込み台となり、上下関係も厳しかったため、剣道から遠ざかっていた。
中学二年生の夏総体の富津市予選の団体戦に選手として途中出場させて頂きましたが、5校中の4位で、君津郡市支部大会出場枠2校に入賞することができず、先輩達は、引退となった。
自分は、先輩方からキャプテンに選ばれました。選ばれたからには、県大会出場を目標に掲げ。
中学校の体育館は、余り使用する事ができないため、前の野間会の監督であった鈴木先生(旧姓:山下先生)に相談し、蒲鉾体育館の鍵を借りる事ができた。
そこで、指導者はいませんでしたが、自分達だけで、打倒:天羽中学校として、17時から20時まで毎日、稽古をすることとした。
同級生に恵まれて、全員が賛同してくれた。
『基本打ちや差し面とはどう打つのか』の研究から始めた。
剣道の漫画本 『六三四の剣』を読み、足腰を鍛えるため、地元の自動車整備工場の社長さん諸事情を説明したところ、理解を示して下さり、古タイヤを入手することができた。
古タイヤを身体にロープで縛りつけ、同級生で飯野ハイウェイ(旧:富津市火葬場)まで、毎日走り、朝練は、マラソンを取り入れた。
何とか、君津木更津支部大会では、天羽中、君津中、小糸中、富津中の四つ巴となり、毎回の団体戦では、毎回、準決勝で天羽中に敗れて三位ばかりであった。優勝は、毎回天羽中、準優勝は、君津中であった。
中山氏は、毎回、個人戦を制覇し、自分は、準決勝で中山氏に敗れて三位であった。
三年生になった四月、運が味方することとなり、中村真先生(現:きんこくの里学童)が、産休補助講師として、富津中に赴任された。
中村先生は、流山市の出身であるが、吉本先生の大学の後輩であり、大学卒業後、吉本先生宅で下宿しながら、君津木更津支部の教員になるため、吉本先生が連れて来られたと聞いていた。
中村先生は、24歳てあり、大学でも剣道を学び、四段であった。
自分は、富津中にチャンスが巡って来たと確信していた。
夏の総体前、5月に吉本先生の口利きではあったが、無名の富津中と練習試合は出来ないと断られたが、吉本先生が何度も説得してくれたことにより、五井中(前年度:千葉県総体3位、関東大会出場)と練習試合をする運びとなった。
今年の五井中も強くて、県下では、知らない者はいなかった。
当時、五井中の常澄先生から、一試合だけしか出来ないとのお話しがあった。
自分らの同級生は、負けん気だけは、人一倍強く、気持ちに火が付いた。
五井中と対戦すると、辛うじて、本数勝ちした。
常澄先生の驚いた顔は、今でも忘れない。
さっさと道着を着替え帰り支度をしていると、常澄先生が中村先生に頭を下げており、もう一試合して頂きたいと申し込まれていた。
中村先生から、自分達に着替えているところ、申し訳なさそうに、もう一試合頼むと言われたが、『自分は、嫌です』とすかさず答えた。
無名であるが所以の悔しくさを表現したものであった。
しかしながら、中村先生の顔を立てて、もう一度、試合をしたが、また本数勝ちすることができた。
自分達が、自信を持った瞬間であった。
自分は、その時、ある決意をした。
当時の富津中学校長先生への試合用防具購入への直訴であった。
平日の給食を食べた後に校長先生の
アポイントを取り、生徒のみで、校長先生にお願いした。
『自分達、富津中学剣道部は、十数年、県大会に出場できていませんが、私達は、必ず県大会に出場しますので、試合用防具を購入して頂きたい』旨を精一杯伝えた。
校長せは、大きく肯くと共に唸っておられた。
暫し考えてから、『検討してみます。』との事であった。
自分達は、緊張が解れたと同時に校長室を後にした。
後に聞いた話しでいいあるが、校長先生は、直ぐに予算を管理している事務局に乗り込んだ。
『今年の予算で県大会までに、剣道部の試合用防具を購入して頂きたい。無論、予算化されていないのは、重々、承知している。』
事務局から、『校長先生、お気持ちは、察しますが、本年度は予算化されていないので、剣道防具を購入することは、出来ません。』
校長先生は、躊躇されることなく、『子供達が、自分達だけで、社会体育をして、成果を出し始めている。あの子達は、本気で県大会を目指している。
必ずや富津中を県大会まで導いてくれる。
私が、責任を取りますので、よろしくお願いします。』
直ぐに、男子は、選手用の試合用胴と白色の道着と綿袴を女子も選手用の試合胴と紺色の道着と綿袴が用意された。
6月となり、君津木更津市内中学生の団体があった。
初めて、試合用防具を着装し、男子団体戦は初優勝した。
7月の県総体富津市予選では、天羽中と同勝者、同本数であった。
中村先生から、リーグ戦であったが、代表戦になっても良い様に準備しろと言われた。
残念ながら、全てのリーグ戦終了後、本数が足りず、準優勝であった。
しかしながら、吉本先生率いる天羽中にようやく追いついたことを実感した。
同月、支部大会大会の準決勝で小糸中に苦戦を強いられた。
先鋒、次鋒の二敗をした。二人は、既に泣いていた。
《自分は、心の中で叫んだ。県大会に出場出来ないかもしれない。校長先生の約束を破るわけにはいかない。絶対に負けられない。》
中堅、副将の自分が共に二つで勝ち、大将戦に繋いだ。
大将が引き分けて、決勝へと駒を進めた。
決勝戦は、打倒:天羽中であった。
結果は、本数負けによる準優勝であった。
悲願を達成することができて、気持ちは、満足していた。
県大会当日、学校が観光バスを手配して頂き、千葉県武道館に向かった。
当時の最高峰の大会会場である、県武道館に初めて入館した。
足が震えて、自分の発生している声も聞こえず、心此処にあらず、一本を先取したが、二本取り返されて、あっという間に自分は、負けて大将に繋げることができずに一回戦敗退が決定した。
結果は、市川学園に2-3であった。
女子も共に一回戦敗退であった。
自分には、県大会に出場できたことへの満足感があったが、高校に入学したら、中学、高校の一貫校である打倒:市川学園と心に誓った。
その後、試合での緊張は、人生で一回限りであるが、先輩達が伝統を作り上げないと、優勝戦まで辿りつけないことを悟った。
支えてくれた皆様に感謝致します。🌸
息子からの感謝の手紙
令和2年2月
息子から手紙を受領しました。
息子は、自分の事をどう思っているのか、手紙を読んで、息子の気持ちを知ることができました。
心と目頭が熱くなりました。
人は、言葉で表現しなければ、相手には中々通じず、活字にすると更に深く認識することを改めて感じました。
有難うございます。🌸
富津市PTA連絡協議会(第3回常任委員会)
令和2年2月15日(土)
飯野小学校PTA会長として、富津市PTA連絡協議会に出席させて頂きました。
今回は、懇親会にも初めて、出席させて頂きまして、色々な方々とのご挨拶やお話しを伺う事ができました。
現在、私共の小学校のPTA会長は、一年任期ですので、もうじき大役を終えますが、様々な方々と出会う事ができ、また、貴重な経験をさせて頂きまして、感謝致します。🌸
ブログを始めた理由
私は、周りの人達に恵まれて、感謝する気持ち、情熱的で貴重な経験した事や思うことなど日記として伝えて残したいと考えました。
また、今後息子が成長して書き記した内容を理解し、後世に伝えていただけたら有難いと思いブログを始めてみる事にしました。
宜しければ、読んでみてください。
当然ながら、職務上、広告収入はありません。
令和2年2月14日 黒木淳一
剣道 野間会での指導
平成29年2月 息子:小学一年生
息子が、剣道をしてみたいと言ってくれたので、出身道場である富津市 野間会に久しぶりに顔を出しました。
13年間、剣道界から遠ざかっていましたので、浦島太郎の様な状態であり、野間会の指導者以外の子供達や、御父兄の皆様も全く、お会いした事も無く、道場に入るのも心の中では、躊躇がありました。
道場に入ると、驚く事に指導者名の木板に自分の名前が、残されていました。
思わず、二度見すると共に、心と目頭がとても熱くなりました。
自分は、35歳で六段に昇段し、思い残す事無く、剣道の試合を引退して、36歳に社会人で清和大学に入学しました。
幸運にも、自分の師匠である朝生賢孝先生が、木更津中央高校剣道部から、清和大学剣道部の総監督に就任され、同大学剣道部創立の年でした。
学業と仕事の両立が中々、困難であり、学業での特待生を目指していたため、大学での剣道は諦めざるを得ませんでした。
40歳で大学を卒業しましたが、職場では、事務職に任用替えして頂いたため、毎日
残業続きで剣道も出来ずに、13年が経過していました。
妻は、大学入学の一年前から、看護師を目指して看護学校に通学していました。
妻の頑張りを間近で見ていて、自分も、諦めていた大学を決意しました。
平成28年6月久しぶりに剣道の団体戦の試合に出場したところ、左脚のアキレス腱🦵を断裂していました。
野間会に顔を出せるまで、8か月を要しました。
野間会の指導者は、代表であり、中学や高校の後輩である熊谷先生、光二先生、織本先生、潤先生がおりました。
熊谷先生は、私が28歳の時に剣道に復帰した時から、35歳まで、一緒に団体戦のチームで戦って来ました。
熊谷先生から、道場に到着するなり、自分に駆け寄り、『先輩、ずっと待っていました。一緒に指導して下さい。』と言われて、自分の事を13年待っててくれたのかと思うと、心が熱くなり、『自分で良いのですか?』と聞き返しました。『何言ってるんですか、当たり前じゃ無いですか。』と熊谷スマイルは、とても輝かしく、その光景が目に焼き付いて、今でも忘れる事ができません。
熊谷先生は、自分が剣道をしていない時も、義父と職場が同じであるため、熊谷先生が心配しているとの話しを何度も聞いておりました。
その後、息子は、剣道を離れてしまいましたが、子供が、野間会指導者として迷っていた自分の背中を押してくれました。
家族、指導者、子供、御父兄の理解があり、今でも自分は、野間会の指導をさせて頂いております。
こちらの写真は、大学卒業後の40歳の時、光二先生、久典先生から指導者のお誘いがあり、妻も了承してくれていたのですが、自分は、0%or100%しか出来ない性格であるため、家族を蔑ろにする事もできずにいました。
指導者名の木板(織本先生のご実家の公務店にて入手された物)であり、48歳まで、殆ど道場に行けなかったのですが、廃棄されずに、ずっと掲げて下さり、皆さんの情熱の魂がこもっています。
皆さんに感謝致します。🌸