剣道 野間会での指導
平成29年2月 息子:小学一年生
息子が、剣道をしてみたいと言ってくれたので、出身道場である富津市 野間会に久しぶりに顔を出しました。
13年間、剣道界から遠ざかっていましたので、浦島太郎の様な状態であり、野間会の指導者以外の子供達や、御父兄の皆様も全く、お会いした事も無く、道場に入るのも心の中では、躊躇がありました。
道場に入ると、驚く事に指導者名の木板に自分の名前が、残されていました。
思わず、二度見すると共に、心と目頭がとても熱くなりました。
自分は、35歳で六段に昇段し、思い残す事無く、剣道の試合を引退して、36歳に社会人で清和大学に入学しました。
幸運にも、自分の師匠である朝生賢孝先生が、木更津中央高校剣道部から、清和大学剣道部の総監督に就任され、同大学剣道部創立の年でした。
学業と仕事の両立が中々、困難であり、学業での特待生を目指していたため、大学での剣道は諦めざるを得ませんでした。
40歳で大学を卒業しましたが、職場では、事務職に任用替えして頂いたため、毎日
残業続きで剣道も出来ずに、13年が経過していました。
妻は、大学入学の一年前から、看護師を目指して看護学校に通学していました。
妻の頑張りを間近で見ていて、自分も、諦めていた大学を決意しました。
平成28年6月久しぶりに剣道の団体戦の試合に出場したところ、左脚のアキレス腱🦵を断裂していました。
野間会に顔を出せるまで、8か月を要しました。
野間会の指導者は、代表であり、中学や高校の後輩である熊谷先生、光二先生、織本先生、潤先生がおりました。
熊谷先生は、私が28歳の時に剣道に復帰した時から、35歳まで、一緒に団体戦のチームで戦って来ました。
熊谷先生から、道場に到着するなり、自分に駆け寄り、『先輩、ずっと待っていました。一緒に指導して下さい。』と言われて、自分の事を13年待っててくれたのかと思うと、心が熱くなり、『自分で良いのですか?』と聞き返しました。『何言ってるんですか、当たり前じゃ無いですか。』と熊谷スマイルは、とても輝かしく、その光景が目に焼き付いて、今でも忘れる事ができません。
熊谷先生は、自分が剣道をしていない時も、義父と職場が同じであるため、熊谷先生が心配しているとの話しを何度も聞いておりました。
その後、息子は、剣道を離れてしまいましたが、子供が、野間会指導者として迷っていた自分の背中を押してくれました。
家族、指導者、子供、御父兄の理解があり、今でも自分は、野間会の指導をさせて頂いております。
こちらの写真は、大学卒業後の40歳の時、光二先生、久典先生から指導者のお誘いがあり、妻も了承してくれていたのですが、自分は、0%or100%しか出来ない性格であるため、家族を蔑ろにする事もできずにいました。
指導者名の木板(織本先生のご実家の公務店にて入手された物)であり、48歳まで、殆ど道場に行けなかったのですが、廃棄されずに、ずっと掲げて下さり、皆さんの情熱の魂がこもっています。
皆さんに感謝致します。🌸